2011年8月31日水曜日

「魯山人味道」を読んで

美味しんぼでも有名な魯山人。美味しんぼのコンセプトは現実性は別にして、その感覚と感性には頷けるので、一度魯山人なるものがどのような事を言っているのか知りたく図書館にて偶然見つけたので借りてきた。

さて、その本、およそ2時間でむさぼるように読んでしまった。美味しんぼが声を大にして訴えたくなる事至極当然。物事の本質というのは、昭和一桁から変わらないものである。当然といえば当然であるが、現代の如く物事の価値観や変化が激しいと錯覚する日々に夢から覚ましてくれた思いとはこの事。

料理とは理(ことわり)を料(はかる)こと。日々食すものは食材の新鮮さを尊び、その素材の独自性と味を引き出し、食すための器にも気を使う。我々は、3度の食事を真にうまいものを食べるべきである。心からの感動と共に。それが料理であり、日本人の文化でもある。これには我が心の奥底に漠とした感覚としてはあったものの、明利な真実として自分の頭にガンと叩き込まれた気がした。

そういえば、先週末昼飯に炒飯を作って、家族に振舞った。しかし、評判は散々。飯はべとべと。味は薄いのか濃いのか、なんの味なのかモワっとしている。妻と子供は「まずい」と一口で箸を止めてしまった。原因はあまりものの食材を手を加え、調味料を加えすぎ、分量・目方を複雑化し、途中から全体の訳がわからなくなり、最終的にまとまりのない炒飯に仕上がった事が原因。味道の悪い例を地で行ってしまった。

料理というと、なぜか未だにその立場は付属的であるように思われる。しかし、それは日本人が一人一人学ぶべき基本中の基本なのかもしれない。日本食は特に難しい。

今は本を買うお金にもケチる毎日。しかし、それでも毎日は家族と共に充実はしている。逆に、物を買えないからこそ食は頭を使っておいしいものを食べたいがために、頭を使って考える。今は、それが運命と知る。

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